日本茶の日
今日はハロウィン。
満月のハロウィンは、なんと1974年以来、46年ぶりとなるそうです。
ところで、10月31日は「日本茶の日」でもあるのです。
実はもう一日、10月1日も「日本茶の日」と定められています。
これらの両日とも、語呂合わせではなく、歴史的史実に基づいて制定されているのです。
(なお「旧暦」ですので、正確には現在の日付とは異なります。)
まず10月1日ですが、天正15年(1587)、京都の北野天満宮の境内において「北野大茶湯」が開催されました。
主催者は、豊臣秀吉。茶頭すなわちプロデューサーは、千利休。
空前絶後の大茶会で、身分をかかわらず参加できたといいます。
それまで特権階級のものであった茶の湯が、この一大イベントによって庶民に広く浸透する契機となったのです。
そして10月31日。こちらは平安時代の最末期までさかのぼります。建久2年(1191)。
のちに臨済宗の開祖となる明菴栄西は、平氏の庇護を受けて二度入宋し禅を学んでいましたが
この年、二度目の帰国となりました。
その際、禅とともに持ち帰ったのが喫茶の風習と茶の種でした。
当時の日本には、すでに中国から茶は伝わっていたのですが、貴族や僧侶のみが嗜んでいましたし、
遣唐使の廃止とともに中国から伝わった文化のひとつともいえる茶の文化も衰退していたといいます。
栄西が茶の種を植えたことが、日本における茶の栽培のスタートと考えられている所以です。
栄西は『喫茶養生記』を著し、茶の栽培や煎じ方、そして喫茶の効能について述べました。
鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』によれば、
宿酔(ふつかよい)で苦しんでいた将軍・源実朝に、栄西が一杯の茶とともに本書を献じたと記されています。
当時の茶は医学的な薬としての意味合いが強いのです。
当時、喫茶には今でいう「天目」茶碗が用いられていました。
天目という名称は、15世紀初め頃、日本で名付けられたのだそうです。(由来には諸説あります。)
日本では、はじめ茶碗(=天目)を中国からの輸入品に頼っていたのですが、
茶の普及とともに茶碗の数が不足し、輸入品だけではまかなえなくなってしまうのです。
一方、瀬戸地方では当時すでに中国のやきものに倣った施釉陶器を生産しており、技術がありました。
やがて中国の「唐物」の天目に倣った茶碗が、瀬戸で焼かれ始めるようになるのでした。
瀬戸天目が作られ始めたのは鎌倉時代の後期頃とされています。
瀬戸天目も時代とともにその器形に変遷が見られます。
上の画像の茶碗は江戸期のもの。
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