十二町潟水郷公園(氷見市)~大伴家持と布施水海

 

三十六歌仙のひとり、大伴家持(おおとものやかもち)は、万葉の歌人として知られています。

万葉集の成立にも深く関わったといわれています。

聖武天皇から桓武天皇までの歴代天皇に仕えた大伴家持は、名門大伴氏の棟梁でもありました。

大和朝廷成立当初から主に軍事面で功績を立て確固たる地位を築いてきた大伴氏。

しかし奈良時代から平安時代初期にかけて、橘氏と藤原氏の政争のはざまで

一族から多数が処罰された大伴氏は、次第にその勢力を失っていくのでした。

大伴家持の父、大伴旅人は、長屋王の変で長屋王と親しかったとされ大宰府に左遷されますが

その長男である家持も度重なる左遷を経て、中央と地方とを行き来したのです。 

 

 

天平18年(746)、家持29歳。

越中守に任命され、天平勝宝3年(751)に少納言となり帰京するまでの5年間、越中国に在任しました。

家持の越中国赴任に、当時の最高権力者、橘諸兄の計らいともいわれ、

(新興の藤原氏を抑える布石として派遣されたという)栄転説と、左遷説とがあるそうです。

 

ところで万葉集で確認できる27年間の歌歴のうち、越中時代の5年間に詠んだ歌は223首。

それ以前の14年間には158首、以後の8年間は92首ですから、数を比較してもわかるように、

歌人として最も意欲的で充実した期間だったと考えられています。

中央での政治的緊張から離れていたこともあってのことでしょう。

 

 

先日、富山県氷見(ひみ)市にある十二町潟水郷公園を訪れました。

氷見は海辺のまちですが、この地からも貝殻が多く出土しており、縄文時代は海だったと考えられています。

土砂の堆積や干拓によって、万葉の時代から小さな湖となり、「布施水海(ふせのみずうみ)」として親しまれてきました。

布施水海は家持もたいへん愛し、たびたび訪れては舟を浮かべ、その美しい景色を歌に残したのです。

この地で都から来た客人をもてなす宴が開かれていたという言い伝えも残されています。

 

 

十二町潟は、オニバスの生息地としても古くから知られており、

十二町潟といえばオニバス、オニバスといえば十二町潟とまで言われていたのだとか。

大正12年(1923)国の天然記念物に指定されたものの、環境の変化により昭和50年代には絶滅したと考えられていました。

十二町潟水郷公園の一角にはオニバスの池があり、オニバスの育成保護が行われています。

 

 

少しゆがんだ淡い青磁の小皿を蓮の葉に見立てて。蓮の花をかたどった白磁の小壺と合わせてみました。

 

2020年07月04日