江戸に下る酒
先日のブログで、東都名所図の盃について書きました。
「東都」という言葉は、西の都、京を意識したものであることはご察しの通りです。
江戸時代、徳川幕府のお膝元とはいえ江戸はまだまだ発展途上の都市。
江戸時代の日本経済は、まさに西高東低でした。
江戸は大消費地である一方、生産性は上方(かみがた、京阪とその近辺)や西国と比べて低く、
商品需要の大半を上方からの物資に頼っていたといいます。
上方で生産され、大消費地江戸へ輸送され消費されるものは「くだりもの(下りもの)」と呼ばれました。
下りものは上質なもの、洗練されたものの象徴。
逆に、安価なもの、質の悪いものは「くだらない(下らない)」ものとされ、
現在の、とるに足りない、つまらない、という意味の「くだらない」の語源となったといいます。
さて、清酒も下りものの典型例であり「下り酒」と呼ばれ、味も品質もよく、江戸でもたいへんな評判でした。
御免酒と呼ばれる江戸幕府の官用酒は下りものでしたし、江戸で消費される清酒の大半が下り酒でした。
上方でも特に酒蔵が集中した地域が摂津国。和泉国の堺を加えて「摂泉十二郷(せっせんじゅうにごう)」と呼ばれます。
かの大坂の鴻池家も、もともと摂津国伊丹での酒造業がその始まりでした。
鴻池村(現在の兵庫県伊丹市北部)は、鴻池財閥発祥の地として知られています。
慶長年間には鴻池流という清酒醸造法を確立、その流れを汲む伊丹酒は長く清酒の代表格でした。
四代将軍家綱の時代の万治年間、材木商であった御影の嘉納家は、当時の先端の製造業であった酒造業に着手。
灘(灘五郷)は、新興の酒造蔵として、先達の伊丹や池田を凌駕するほどの地位を確立していくのでした。
やがて嘉納家は2つに分かれます。本家の「本嘉納家」と分家の「白嘉納家」です。
本嘉納家は現在の菊正宗酒造、白嘉納家は現在の白鶴酒造です。
古美術に関わる者として、嘉納家といえば白鶴美術館。
世界屈指の質を誇るコレクションが有名で、私も関西にいた頃は休日を使用してときどき見学に伺いました。
神戸市の御影にあります。白嘉納家のコレクションです。
また神戸市にある日本屈指の進学校、灘校。こちらも嘉納家と深い関わりがあります。
本嘉納家、白嘉納家と、同じく灘で酒造業を営む山邑家(櫻正宗)によって設立されたのです。