嫁脅し肉付きの面
時は室町時代の半ば、足利義政の治世。
応仁元年(1467)に応仁の乱が始まります。
その最中の文明3年(1471)、蓮如は越前吉崎に赴き、吉崎御坊を建立します。
荒地であった吉崎は急速に発展し、寺内町が形成されていくのでした。
その吉崎には「嫁脅し肉付きの面」という伝説が残されています。
「 むかしむかし蓮如さまが吉崎におられたときの話や。
十楽村に嫁の清さんと婆さんが住んでいたんやと。
清さんは三十三歳やったんや。
かわいそうにの、二人の子供が次々と病にかかって死んでしもうた。
ああ、と思っていたら、夫の与三次さんも急病にかかってなくなってしもうたんや。
清さんはの、世の無常をさとって吉崎御坊へ参って、蓮如さまの話をきいて信者になったのや。
それでの、昼はたんぼや畑を耕し、婆さんの機嫌をとって、夜、手がすくと一里の山道を歩いて吉崎御坊へお詣りしたんや。
ところがおもと婆さん、それが気にいらんで、家宝の鬼の面をかぶって途中の谷間でおどし、こわがらせて吉崎詣りをやめさせようとしたんや。
うわあーと鬼がでたじゃから、清さん、とびあがってびっくりしたやろの。
だがの、心をしずめ「食まば食べ 喰わば喰え金剛の 他力の信はよもはやむまじ」と口ずさんで、念仏申し申し吉崎へ詣ったんやそうな。
さてさて、婆さんは「うまくいったぞ」と家へ帰り、面をすみやかにとろうとしたら、とれんのや。
むりにとろうとすると、血が流れ出ていたむんや。手も足もしびれてしもうたんや。
こわいこっちゃ。ばちがあたったんやろの。
清さんはお詣りをすませ、家へ帰って「ただいま」と戸をあけて中へはいると、谷に出た鬼がいるんで二度びっくり。
「助けてくれ!清さん」といわれて、婆さんとわかって、とってあげようとするが、とれんのや。
孝行ものの清さんも困ってしもうたんや。婆さんはとってほしいが、とってもらえんので大声あげてなくんや。
そこでの、清さんは「蓮如さまのおおせには、いかなる者も弥陀をたのめば仏になるとおっしゃった」と、婆さんの一番きらいなお念仏をすすめたんやと。
さすがの婆さんも涙をながして話す清さんをみて、
「清さん、面をかぶっておどした私が悪かった。かんにんしての」
「いやいやお婆ちゃん、わたしにあやまらんでいいですよ。面がとれないから困るんでしょう。どうぞお念仏を・・・」
生まれてからはじめて「なむあみだぶつ、南無阿弥陀仏」と清さんのすすめでとなえたんやと。
あらあらふしぎやの、清さん、手でもってひくと、すっととれんや。
二人は大喜び、手に手をとりあって吉崎御坊へかけつけ、蓮如さまに事のしだいをお話しし、面をおあげしたんやと。
蓮如さまは喜ばれ、婆さんにお念仏のありがたいことをとかれたんやと。
それからは婆さんも信者になって、二人手をとりあって吉崎へ蓮如さまのお話を聞きにやってきての、仲よくくらしたんやといの。
嫁おどしの面は蓮如さまが吉崎を出られるとき、
「末代のみせしめにせよ。参詣者の方々にこの話を聞いてもらい、家中のもの仲よう念仏もろとも楽しく生きてくださるよう伝えてくれよ」
と吉崎御坊に残していかれたんやと。 」
(以上、「吉崎御坊の歴史」図書刊行会より)
ところで、「吉崎参拝記念」と掛かれた盃を見つけました。
見込に女性の顔が描かれています。
裏面は、緑鬼の顔。鬼面の盃です。
「鬼は外、福は内」内側がお多福になった鬼面盃は節分盃とも呼ばれます。
節分盃は江戸時代末期頃から作られ始めたと聞いています。
同じような盃で九谷銘のものをときどき見かけることがありますが、
九谷でも明治から大正にかけてさかんに作られていたといいます。
この盃の場合、見込に描かれた女性はお多福とも異なるように思われます。
何だろうと思い巡らせ、調べている中で、「嫁脅し肉付きの面」の伝説にたどり着きました。
おそらく、この盃は節分盃を若干アレンジして「嫁脅し肉付きの面」を表現したものではないかと思っています。
描かれた女性は嫁の「清さん」(老婆の姿ではないので「おもと婆さん」ではないでしょう)。鬼は嫁脅しの面。
吉崎限定の盃。今でいうところのご当地グッズのさきがけですね。
ところで、緑鬼の色にも意味があるようです。
仏教には、煩悩を表す五蓋(ごがい)という考え方があって、それぞれに色があてがわれているのです。
①赤⇒貪欲(とんよく):むさぼること
②青⇒瞋恚(しんに):怒ること
③緑⇒惛沈(こんちん)・睡眠:倦怠や眠気
④黄⇒掉挙(じょうこ)・悪行(おさ):心の浮動や後悔
⑤黒⇒疑惑:疑うこと
節分の豆まきのとき、自分の打ち勝ちたい煩悩の色の鬼に豆を投げるとよいともいわれています。
もしかしたら、あと4色、この盃の色違いのものがあったのかもしれません。