蒐集に就て

 

「時として蒐集家は、商人の推薦するものを賴つて蒐めることがある。

だがそれをやつてゐる間はろくな蒐集は出來ないと云ふことを明確に知つておく必要がある。

中で本屋等は比較的よい方である。

それは本を集める程の人は相當學問があつて商人より詳しく知つてゐる場合が多いのと、

書物には贋物が少ないからである。

だが同じ商人でも骨董屋になると信用の出來るのは寥々たるものである。

知らない人の前には學校の先生以上に講釋をまくし立て、功德を説くのを通則とする。

それが有力な商法だからである。

云ふことまんざら嘘ばかりではないが、賴りにならないこと夥しい。

買はせる爲には惡いものでも雄辯に讃美する。

骨董商は屢々不當な儲けをしておかないと商賣が成り立つてゆかない。

それでその忠言には不純な動機が大いに多い。

それより講釋される方が惡いのだと云つてもいゝ。

蒐集家は骨董商の言葉を賴る様な不見識ではいけない、眼がきく骨董商は一割もないものである。

眼がきけば商賣がしにくいかも知れぬ。

まして人格のある商人は一分あるかなしかである。

人格なんかよくては商賣にならぬかも知れぬ。

品物は當然蒐集家の方で指導していゝのである。

いゝ蒐集家は骨董商を引きずつてゆくだらう。

商人はそれが賣れさへすれば、一生懸命にあとからつきまとつてくるものである。

それが反對に商人に引きづられる様ではろくな蒐集は出來ない。

商人の忠言は忠言である場合が極めて少ないからである。

ものは商人に集めさせればそれでよいので、商人に自分が集めさゝれては駄目である。

いゝ蒐集はいつも骨董商の眼先より一時期先である。

自分の蒐集でなく商人の蒐集となる様な惨な結果に陥らない様に私は切に勸める」

 

 

『工藝』第25号で柳宗悦が蒐集について綴ったものです。

耳の痛い言葉ではありますが、戒めの言葉として言葉に刻みます。

早ければ明日、手元を離れてしまう『工藝』を、もう一度読み返しているところです。

 

 

 

2019年06月16日